国語辞典を開けば、「自己」の最も一般的な対義語として「他者」が挙げられている。自分以外の人間、意識の外部に存在する人間を指す言葉として、これ以上の適訳はないように思える。だが、一歩踏み込んで学術の領分に目を向けると、状況は一変する。
たとえば免疫学をはじめとする生物学の世界において、「自己(self)」の明確な対立概念として君臨するのは「非自己(non-self)」である。免疫システムは、体内に侵入したウイルスや細菌を「自分ではないもの(非自己)」と識別し、排除する仕組みを持つ。ここでは人間関係における「他者」ではなく、生体的な境界線としての「自己と非自己」が厳密に議論される。
一方、哲学・心理学の領域や近年の認知科学の知見においては、「自己」の対概念として「環境」「世界」「対象」といった言葉が浮上する。主観的な観察者としての「自己」に対して、観察される外側の客観空間全体を指すためだ。文脈に応じて対照的な用語を選び分ける力こそが、緻密な思考を展開する上でのカギとなる。