筆名を変える作家は珍しくない。しかし、彼ほど完璧に「人格」と「作風」を分離させたクリエイターは稀有だ。「乙一」という名義が提示するのは、人間の冷酷さや残酷な美しさを描くダークファンタジー、あるいは極上のミステリー小説の世界である。集英社から刊行され第3回本格ミステリ大賞を受賞した『GOTH リストカット事件』に代表されるように、黒い感情の澱を掬い上げる手腕はあまりにも鮮烈だった。
一方、彼が覆面作家として生み出した別名義たちは、まったく異なる色彩を帯びている。読者や評論家が「乙一の新作」という先入観を持って作品を読むことを恐れた彼は、名前を隠すことで物語そのものの強度を試そうとした。出版業界を驚愕させた名義の使い分けは単なる遊び心ではない。先入観を排し、純粋にストーリーの力だけで読者の心を揺さぶるための、極めてストイックな表現上の戦略だったのである。