大正中期、山口春吉は組長の座を実子である山口登に譲り、自らは隠居の道を選ぶ。この二代目就任こそが、組織の運命を大きく左右する第2の転換点となった。
山口登は、父が固めた港湾基盤を足がかりにしながら、活動の場を浪曲や大相撲などの興行界へと大胆に広げた。港の荷役で得た資金力をエンターテインメントビジネスへと投下する発想は、当時としては極めて先進的だったと言える。有馬温泉や神戸市内の劇場を根城にし、名だたる芸能人や興行師とのパイプを太くしていった登の代において、組の知名度は一気に全国区へと押し上げられることになった。