美輪明宏が『愛の讃歌』の独自の訳詞を手掛けるに至った背景には、シャンソンという芸術に対する並々ならぬ誠実さと、当時の日本の音楽シーンに対する強い違和感がありました。
1950年代、伝説のシャンソン喫茶「銀巴里」のステージに立っていた若き日の美輪明宏は、日本中で大ヒットしていた『愛の讃歌』を耳にするたび、胸の中にぬぐえない違和感を覚えていました。当時広く歌われていたのは、岩谷時子が作詞し越路吹雪が歌ったバージョンです。それは美しい愛の賛美歌として完成されていましたが、フランス語の原詩(Hymne à l'amour)が持つ凄惨なまでの情念とは大きくかけ離れていたからです。
原曲を作詞・歌唱したフランスの至宝エディット・ピアフは、最愛の恋人であったプロボクシング世界王者マルセル・セルダンを航空機墜落事故で突如失いました。絶望の淵に突き落とされたピアフが、自らの命を削り、血を流すような思いで書き上げたのが『愛の讃歌』です。その背景を知る美輪明宏は、「これは綺麗事のラブソングではない。命を投げ出す覚悟と、神へのすがるような祈りの歌だ」と痛感し、自ら辞書を片手に原詩の真意を余すところなく日本語へ移し替える作業に没頭しました。