李良枝の文学的試みが初めて大きな結実を見たのが、1982年のデビュー作『刻』であった。自己の存在を削り出すような文体は、当時の文学界に鮮烈な衝撃を与えた。その情熱は一過性のものではなく、やがて第100回芥川賞受賞作となった代表作『由熙』へと引き継がれる。母国である韓国・ソウルへの留学体験を背景に、母国語(韓国語)と母語(日本語)の間で揺れ動く女性主人公・由熙の内面を繊細かつ強烈に描写した本作は、純文学の世界に新たな金字塔を打ち建てた。
『由熙』で描かれたのは、単なる二項対立の図式ではない。言葉を得ることの歓喜と、それに伴う乖離の苦悩。そこには、日本語という表現の器を誰よりも愛し、それゆえに苦しんだ一人の表現者の切実な魂が刻み込まれていた。文学碑の前に立つとき、読者は『由熙』の行間に溢れていた切迫した熱量を再び呼び覚ますことになる。