学部を優秀な成績で卒業した川谷は、周囲の学生と同じく東京農工大学大学院の修士課程へ進学します。日本の国立理工系において、学部卒業生の7割以上が大学院へ進み、大手化学メーカーや研究機関の研究開発職へ就職するのは王道のキャリアモデルです。当然ながら、川谷自身も当初はそのような将来像を少なからず視野に入れていました。
しかし、進学直後の2010年代初頭、彼を取り巻く状況は激変します。大学時代に結成したバンド「indigo la End」の活動が下北沢や新宿のライブハウス界隈で熱狂的な支持を集め始め、CD制作やツアーの打診が舞い込むようになったのです。ここから、昼は白衣を着てフラスコを振り、夜はギターを背負ってステージに立つという極限の二重生活が始まりました。
当時のインタビューや特番ドキュメンタリーにおいて、川谷は大学院時代の壮絶な日常を次のように回顧しています。
「朝から夕方まで実験室に籠もり、化合物の反応を見守る。少しでも数値を間違えればやり直しになる世界で、頭の片隅ではずっと新しいメロディが鳴っていた。夜のライブのために実験を切り上げて白衣を脱ぐたび、教授や研究室の仲間に対する申し訳なさと、音楽を諦めきれない衝動の間で引き裂かれそうだった」
化学実験は、数時間の拘束や夜通しの観察が日常茶飯事の過酷な世界です。ライブ遠征と研究スケジュールのバッティングが常態化し、睡眠時間を削って両立を試みたものの、やがて「どちらに対しても中途半端になっている」という限界点に到達します。安定した大手企業への就職切符を約束された国立大学院の籍を捨てることは、一般社会的なレールからの完全な逸脱を意味していました。
当然、厳格だった両親や指導教官からは猛烈な反対を受けました。しかし川谷は「今この瞬間にすべての時間を音楽へ注ぎ込まなければ、一生後悔する」という確固たる意志のもと、修士1年の途中で大学院中退届を提出。退路を断った背水の陣を敷いたことで、彼の創作スピードと表現への飢餓感は一気に加速していきました。