日常会話の中で固有名詞が出てこなくなったり、数分前の行動を忘れてしまったりする現象に直面した際、多くの人は「年齢による衰え」や「初期の認知症」を直感します。しかし、脳神経内科やアレルギー外来を訪れる患者の中には、一般的な抗認知症薬がまったく効かず、環境調査を行って初めて吸入毒素が元凶だったと判明するケースが報告されています。
原因物質となるのは、カビ(真菌)が生存競争の中で二次代謝産物として産生する天然の化学毒素「マイコトキシン」です。この物質は揮発性あるいは超微小粒子(マイコトキシンの分子量は約300〜500ダルトン程度)として室内に飛散しており、呼吸を通じて鼻腔の奥にある嗅上皮へと吸着します。鼻腔と脳の「嗅球」は解剖学的に直結しており、通常は異物の侵入を遮断する血液脳関門(BBB)を軽々と迂回して大脳辺縁系や海馬へダイレクトに到達してしまうのです。
脳内に侵入したカビ毒は、免疫細胞であるミクログリアを異常に活性化させ、持続的なサイトカインストーム(慢性炎症)を発生させます。結果として神経細胞のシナプス伝達が阻害され、思考や記憶のネットワークが寸断されます。外来の診察室で「最近、家族の性格が攻撃的になり、物忘れがひどくなった」と訴える患者の自宅を専門機関が測定したところ、高濃度のトリコテセン系マイコトキシンが検出されたという報告は、決して珍しい話ではありません。