かつて大手映画会社である東宝の撮影所で叩き上げの経験を積んだ彼は、職人肌の技術と実験的な作家性を兼ね備えた異色の存在だった。助監督時代から現場の隅々まで熟知し、照明の当て方一つ、マイクの位置一つに妥協を許さない姿勢は当時から際立っていた。映像ディレクターとして独立した直後から、その圧倒的な絵作りはカルト的な支持を集め始める。
旧態依然としたスタジオシステムに囚われず、インディペンデントとメジャーの境界線を軽やかに飛び越えていく制作手法は、日本映画監督協会の内部でも度々議論を巻き起こしてきた。「映画制作の伝統を守ることと、表現の枠組みを壊すことは同義である」という信念のもと、彼は現場の指揮系統をアップデートし、若手技術者を積極的に重用。旧来のヒエラルキーを解体しながら生み出されるダイナミックな作品群は、日本映画の停滞感を打破する起爆剤として認知されていった。