結論から言えば、主人公・立花喜久雄という特定の歌舞伎役者が実在したわけではありません。しかし、本作は「完全なるフィクションでありながら、極めて純度の高い実話の結晶」と評するのが最も正確です。国宝の実話に関する最新情報と詳細な解説をお届けするにあたり、まず着目すべきは作者・吉田修一氏が敢行した異例の取材プロセスにあります。
吉田氏は執筆にあたり、歌舞伎の舞台裏に黒衣(くろご)として入り込み、約3年間(1,000日以上)にわたって楽屋や稽古場の空気を直接肌で吸収しました。報道関係者向けのインタビューや自著の随想でも語られている通り、鏡台の前に座る役者が放つ独特の緊張感、白粉(おしろい)の匂い、手鏡越しに交わされる師弟の視線といった微細なディテールは、すべて現場の一次観察から紡ぎ出されたものです。
作中で描かれる喜久雄の天才的な女形としての所作や、舞台上で「神が降りた」と錯覚させるほどの演技描写は、昭和から平成にかけて歌舞伎界の頂点に君臨した実在の女形たちの姿が直接の着想源となっています。虚構の筋立ての中に、本物の梨園の歴史と役者たちの生き様が緻密に織り込まれているからこそ、読者は「実話そのものではないか」と錯覚するほどの引力を感じるのです。