伊東甲子太郎と近藤・土方との間に生じた決定的な溝、それは「国家の未来像」を巡る根本的な思想対立でした。徳川幕府への絶対的忠誠と佐幕路線を貫く新選組首脳部に対し、伊東は「尊皇攘夷」を根幹に据えつつ、長州藩の宥和や朝廷を中心とした開国連合政権の樹立を構想していました。幕府の権威が失墜しつつある幕末の政局において、幕府の単なる武力装置として機能し続ける新選組の在り方に限界を感じていたのです。
慶応3年(1867年)3月、孝明天皇が崩御したことを機に、伊東は周到な政治的策略を打ち出します。天皇の御陵(墓所)を守護する特命任務「御陵衛士(高台寺党)」の拝命を朝廷から取り付け、新選組を「円満脱退」する形を整えたのです。新選組の掟である「局中法度」には「脱走者は切腹」という絶対の鉄則がありましたが、伊東は朝廷直属の任務という大義名分を盾にすることで、合法的に隊を割ることに成功しました。
この離脱には、試衛館以来の生え抜き幹部であった藤堂平助をはじめ、弟の鈴木三樹三郎、篠原泰之進、服部武雄ら計15名が合流しました。特に藤堂の離脱は、近藤と土方に強烈な危機感と屈辱を刻み込みます。土方歳三は伊東派の動向を危険視し、腹心の斎藤一をスパイとして御陵衛士に潜入させ、その動向を冷徹に監視させ続けました。