野沢雅子の役者人生の起点は、驚くべきことに昭和初期の子役時代の経歴にまで遡ります。叔父が大手映画会社・松竹の映画プロデューサー(佐々木氏)であった縁から、弱冠3歳で映画『慰問袋』に出演。幼少期から映画の撮影現場に出入りし、大人たちの芝居合戦を間近で肌感覚として吸収していきました。
しかし、その華やかなスタートの直後に押し寄せたのが太平洋戦争の激化でした。戦火を逃れるため、一家は東京都内から群馬県沼田市へと疎開を余儀なくされます。山間部での過酷な食糧難と冬の厳寒のなか、幼かった野沢雅子は自然のなかを裸足で駆け回り、山野草を採り、ときには大人顔負けの体力と根性を培いました。後に自身の手記やインタビューでも「あの疎開先で思いきり大声を出して野山を走り回った経験こそが、強い肺活量とへこたれない精神を作ってくれた」と述懐しています。
終戦後、焼け野原となった東京へ戻った後も、彼女の胸の奥底には「芝居を続けたい」という強烈な直感が灯り続けていました。幼い頃に経験した「誰かに作り話の世界を届け、目の前で感情を動かす面白さ」が、その後の彼女の進路を決定づけることになります。