元禄3年(1690年)、63歳で藩主の座を退いた光圀は、常陸太田の山あいに建てた簡素な住居「西山荘(せいざんそう)」へと移り住みました。権力闘争から身を引いた晩年の約10年間、質素な茅葺き屋根の家で暮らしながら、『大日本史』の校閲と執筆に心血を注ぎました。
西山荘での光圀は、粗末な木綿の衣服をまとい、庭で自ら農作業を行い、通りかかる農民に声をかけて酒を酌み交わすなど、身分を越えた交流を楽しんでいました。この飾らない人柄と庶民への温かい眼差しが、後世の「親しみやすい黄門様」像のベースとなっています。
光圀が「名君」と称えられる理由は、単に歴史書を作ったからだけではありません。藩主在任中に行った徹底した民政改革が高く評価されています。
- 笠原水道の敷設:水不足に苦しむ水戸城下の町民のため、約10キロにおよぶ上水道を整備
- 寺社改革と社会福祉:破戒僧を取り締まりつつ、神社仏閣の修繕や貧民救済制度を整備
- 巨船「快風丸」の建造:蝦夷地(北海道)探検隊を派遣し、北方警備と交易ルートの調査を実施
■ 水戸光圀の生涯略年表
- 1628年(寛永5年):水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として誕生
- 1633年(寛永10年):6歳で水戸藩の世継ぎに正式決定
- 1645年(正保2年):『史記』伯夷伝を読み、学問への志を立てる
- 1657年(明暦3年):江戸に史局を設置し、『大日本史』の編纂を開始
- 1661年(寛文元年):34歳で水戸藩第2代藩主に就任
- 1665年(寛文5年):明の儒学者・朱舜水を招聘し、師事する
- 1690年(元禄3年):藩主の座を甥の綱條に譲り隠居、西山荘へ移住
- 1700年(元禄13年):西山荘にて73歳で逝去