分裂から抗争の終結、そして完全解散に至るプロセスを整理すると、事態がどのようにエスカレートし、収束へ向かったのかが鮮明に浮かび上がります。
山一抗争時系列年表まとめは以下の通りです。
【1981年〜1982年:権力空白期の到来】
・1981年7月:山口組三代目・田岡一雄組長が心不全により急逝。
・1982年2月:三代目の正統後継者と目されていた若頭・山本健一が病死。組内に後継を巡る派閥対立が激化。
【1984年:分裂と一和会の結成】
・1984年6月5日:竹中正久が山口組四代目組長就任を受諾。
・1984年6月13日:反竹中派の山本広らが「一和会」を結成し独立。構成員約6,000人でスタート。
・1984年7月10日:竹中正久の四代目山口組組長襲名式が執り行われる。
【1985年:首領暗殺と泥沼の抗争】
・1985年1月26日:大阪・吹田市「GSハイム江坂」にて竹中組長らが一和会系組員に銃撃される。
・1985年1月27日:竹中組長が死亡。山口組が緊急幹部会を開き、組織を挙げた報復態勢へ突入。
・1985年2月〜:全国で山口組による激しい報復銃撃戦が展開。一和会幹部宅への車両突入や白昼の発砲が常態化。
【1986年〜1987年:一和会の孤立と壊滅的衰退】
・警察当局の一斉摘発により両組織の主要武闘派が相次ぎ逮捕。
・山口組の執拗な攻撃と切り崩しを受け、一和会からの離脱者・引退者が激増。一和会の構成員は数十人規模へと激減。
【1988年〜1989年:手打ちと組織解散】
・1988年5月:一和会・山本広会長が引退を表明。
・1989年3月30日:稲川会など他団体の仲介により、一和会が正式に解散届を兵庫県警に提出。山口組本家へ山本広自らが謝罪に赴き、抗争が完全終結。