近代日本の国家建設を主導した巨頭たちも、相次いで凶刃に倒れました。日本の立憲政治が確立されていく過程で起きた2つの重大事件は、その後の外交と内政の方向性を決定づけました。
伊藤博文ハルビン暗殺事件(1909年)
初代内閣総理大臣を務め、大日本帝国憲法の起草者でもあった伊藤博文は、1909年10月26日、ロシア蔵相ココツォフとの非公式会談のため満洲(現中国東北部)のハルビン駅に到着しました。プラットフォームに降り立った直後、朝鮮の独立運動家・安重根によって放たれた3発の銃弾を受け、まもなく息を引き取りました。
伊藤自身は日韓併合の急進論に対して慎重派の立場をとっていましたが、この暗殺事件が引き金となり、日本政府内の強硬論が一気に加速。翌1910年の韓国併合へと歴史が急速に舵を切ることになりました。
「平民宰相」原敬の東京駅遭難事件(1921年)
日本で最初の本格的政党内閣を組織し、「平民宰相」として国民的人気を集めた原敬首相は、1921年11月4日夜、立憲政友会の京都支部大会へ向かうため東京駅丸の内南口の改札口に向かっていました。雑踏の中から突如現れた大塚駅転轍手の青年・中岡艮一に短刀で右胸を深く刺され、ほぼ即死状態で絶命しました。
中岡の動機は、普通選挙法の導入に慎重だった原内閣への不満や、相次ぐ疑獄事件報道に感化された独善的な義憤でした。強力なリーダーシップで政党政治を軌道に乗せようとしていた大黒柱の死は、大正デモクラシーの発展に大きな影を落としました。