戦時中の日本の核開発を語る上で欠かせないのが、陸軍と海軍の主導権争いと、それに伴う開発手法の違いです。陸軍は1941年から理化学研究所(理研)の仁科芳雄博士をリーダーとして「に号研究」を推進していました。
両者の最大の違いは、原爆製造の要となる「ウラン濃縮」のアプローチにありました。
理研の「に号研究」が気体状にした六フッ化ウランの温度差を利用する「熱拡散法」を採用したのに対し、京都帝大の「F研究」は高速回転による比重差を利用する「超遠心分離機方式」を選択しました。荒勝教授は、熱拡散法はエネルギー効率が悪く日本の乏しい電力事情には不向きであると見抜き、東京計器製作所などと連携して遠心分離機の設計開発に挑みました。
本来であれば、限られた資源と人材を一本化すべき国家存亡の危機において、陸軍と海軍の根深いセクト主義が災いし、情報共有や物資の融通はほとんど行われませんでした。この二重構造こそが、日本の核開発における決定的な足かせとなったのです。