朝鮮半島が分断される直接の引き金となったのは、1945年8月の日本の敗戦直前に生じた米ソ対立の激化でした。1945年8月8日深夜、ソ連が対日宣戦布告を行い、満洲および朝鮮半島北部へと電撃的に侵攻を開始。当時、米軍の主力部隊は沖縄などに展開しており、朝鮮半島からは数百キロ以上も離れた場所に位置していました。このままではソ連軍が瞬く間に半島全土を単独占領してしまうという強い危機感が、米ワシントンの国防首脳部に走ったのです。
同年8月10日から11日にかけての深夜、米国陸軍省(現在の国防総省)の一室で、緊急の任務を命じられたのが、後に国務長官となるディーン・ラスク中佐と、後に陸軍大将となるチャールズ・ボーンスティール大佐の2人でした。彼らに与えられた猶予はわずか約30分間。手元にあったナショナル・ジオグラフィック社製の小型壁掛け地図を広げ、米軍が即座に進駐できる現実的な範囲と、ソ連側が受け入れ可能な妥協点を模索しました。
米国外交公文書(FRUS)の記録やラスク本人の回顧録によると、当初は首都ソウルを米軍の占領地域に含めることが絶対条件とされました。行政区画を無視してでも分かりやすく、かつ米国の勢力圏にソウルと仁川港を確実に残せる境界として選ばれたのが、半島をほぼ中央で二分する「北緯38度線」だったのです。軍事的な根拠や朝鮮半島の住民の意向、歴史的・経済的な生活圏のつながりは一切考慮されず、超大国の利害調整のための一時的なラインとして、定規一本で引かれた線に過ぎませんでした。
驚くべきことに、スターリン率いるソ連側はこの提案を一切修正することなく受諾しました。ソ連軍はすでに38度線以南へ進出できる態勢にありながら、協定を遵守して38度線でピタリと進撃を停止したのです。こうして、日本軍の武装解除を目的とした「便宜的な軍事境界線」であったはずの38度線は、米ソ冷戦の激化とともに恒久的なイデオロギーの壁へと変貌し、1948年の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の樹立によって、決定的な民族分断の悲劇を固定化することになりました。