1857年、官展であるサロン・ド・パリに作品が出品された瞬間、保守派の批評家たちは激昂した。当時の批評紙はこれを「危険な社会主義のプロパガンダ」「暴力と暴動を煽る無礼な絵」と酷評した。なぜ、農村の日常を描いた絵がそこまでの脅威とみなされたのか。
当時の洋画界において、絵画は神話や歴史上の英雄、あるいは優雅な貴族を理想化して描く場所だった。しかし、写実主義の先鞭をつけたミレーは、泥にまみれた衣服、日焼けで黒ずんだ首筋、粗雑な作業着を隠すことなくそのまま描き切った。
1848年革命の記憶がまだ生々しく残るパリのブルジョワ階級にとって、キャンバスの中央に堂々と鎮座する貧しい農夫たちの姿は、いつ自分たちの富を脅かすとも限らない潜伏した労働者階級の暗号に見えたのだ。ミレーは彼女たちを惨めに描くのではなく、どこか古代ギリシャ彫刻のような重厚さと彫刻的な存在感を与えた。それこそが、当時の権力層を最も恐れさせた要因だった。