部首・漢字学の世界において、糸へんの解釈は長年議論の的となってきた。後漢の学者である許慎(きょしん)が著した最古の部首別漢字字典『説文解字』において、糸は「細い糸の束」を象ったものと定義された。束ねられた生糸の象形という物理的な解釈は、後世の言語学・文字学における通説として定着していく。
しかし20世紀、文字学者・白川静がこの定説に強烈な一石を投じた。甲骨文字や金文を徹底的に読み解いた白川は、糸が単なる繊維ではなく「神霊を招き、あるいは邪悪を縛り付ける呪具」であったと論破したのだ。
古代社会において、糸を撚(よ)り合わせる行為は生命の連続性を担保する聖なる儀式だった。白川文字学によれば、結び目には霊力が宿り、境界線を引くための結界として機能していたという。「約束」の「約」が神への誓いを意味し、「幽」が糸を暗闇に垂らして神託を待つ様を示すように、糸へんの深層には古代人の畏怖と祈りが刻み込まれている。