大坂城の落城とともに炎の中に消えた豊臣家。元和元年の大坂夏の陣は、豊臣秀吉が築き上げた栄華の終焉として歴史に刻まれている。徳川家康の命により、秀吉の嫡男である豊臣秀頼と、その母・淀殿は城内で自害に追い込まれた。さらに秀頼のわずか8歳の男児・国松も京都の六条河原で斬首され、公的には血脈が途絶えたとされる。
しかし、当時の社会情勢や権力者たちの思惑を紐解くと、記録の裏に隠された影が見え隠れする。徳川幕府にとって、豊臣の血を引く者の存在は政権の正当性を揺るがす絶対的な脅威だった。それゆえに「完全な断絶」を徹底して公式記録に刻み込む必要があったのだ。だが、乱世の混乱の中で密かに匿われた命があったとしても不思議ではない。