太平洋戦争の戦局が絶望的となった1945年4月、小磯國昭内閣の総辞職に伴い、昭和天皇から直々に組閣の大命が降下しました。当時77歳2ヶ月という高齢に加え、聴力にも不安を抱えていた鈴木は「軍人は政治に関与すべきでない」として固辞しましたが、昭和天皇から「この重大な局面において、お前以外の者を頼むことはできない」と切望され、死を覚悟して首相の座を引き受けました。
表向きは「本土決戦・一億総特攻」の姿勢を崩さず陸軍の暴発を防ぎながら、水面下ではソ連を仲介とした和平工作を模索するなど、極めて高度な「腹芸」を展開しました。1945年7月26日に米英中からポツダム宣言が発せられると、鈴木内閣は緊迫した決断を迫られます。
同年8月9日深夜から開かれた歴史的な最高戦争指導会議および御前会議において、戦争継続を主張する阿南惟幾陸軍大臣らと、和平を求める東郷茂徳外務大臣らの意見が真っ向から対立しました。全員一致が原則の閣議において、議論は完全に膠着状態に陥ります。
ここで鈴木貫太郎は、憲政史上前例のない前代未聞の行動に出ました。議長である鈴木自らが立ち上がり、「意見が分かれて決定に至りません。恐れ多い極みではございますが、聖断を仰いで本会議の決定といたしたい」と、昭和天皇に最終決断を委ねたのです。昭和天皇が「私の意見は外務大臣の意見と同じである」と述べ、ポツダム宣言受諾が決しました。
作家・半藤一利氏の不朽の名作『日本のいちばん長い日』にも描かれたように、8月14日から15日の未明にかけて、終戦を阻止しようとする陸軍青年将校たちがクーデター(宮城事件)を起こし、鈴木首相の私邸や首相官邸を急襲・焼き討ちしました。鈴木は間一髪で脱出し、8月15日の玉音放送によって無事に戦争は終結を迎えました。役割を果たした鈴木内閣は、同日午後に内閣総辞職を行っています。