「毎年お盆の墓参りに行くと、決まって黒い羽のトンボが墓石の周りを飛んでいる」という体験談は、日本全国で数多く語り継がれています。一部の地域では「精霊トンボ(しょうりょうとんぼ)」とも呼ばれ、亡くなったご先祖様の魂がトンボの姿を借りて里帰りしていると信じられてきました。
この現象には、民俗信仰の美しさと同時に、昆虫生態学における必然的な理由が存在します。ハグロトンボは春先から初夏にかけて水中でヤゴから羽化し、初夏(6月頃)は体がまだ未成熟です。成虫としての成熟期を迎えるのがまさに7月下旬から8月中旬、つまり旧暦・新暦の「お盆」の時期と完璧に重なります。
羽化直後の個体は直射日光や強い暑さを避け、水辺から一時的に離れて鬱蒼とした林縁や日陰の多い民家の庭先、竹林、そして木々に囲まれた墓地へと移動する習性を持っています。体力をつけ成熟した個体は、8月中旬を過ぎると繁殖のために再び明るい水辺へと戻っていきます。つまり、人間がお盆に墓参りをしたり実家で過ごしたりする時期と、ハグロトンボが木陰を求めて人里の静かな場所に留まる時期が生物学的に完全に一致しているのです。