明治政府がこれほど強引な弾圧に踏み切った最大の理由は、日露戦争(1904〜1905年)以降に急速に高まった社会主義運動や労働運動への強烈な恐怖心にありました。
日露戦争の勝利の裏で、日本国内では戦費調達のための重税と物価高騰にあえぐ労働者・農民が急増していました。足尾銅山暴動事件(1907年)や各地のストライキが頻発し、幸徳秋水らが発行する機関紙『平民新聞』を中心とした反戦・反体制思想が都市部から地方へと浸透し始めていたのです。
当時の首相・桂太郎や元老・山県有朋ら為政者は、「万世一系の天皇を中心とする国体」を揺るがす社会主義の台頭に強い危機感を抱いていました。検察トップであった平沼騏一郎らは、宮下太吉の爆弾事件を絶好の好機と捉え、「危険思想の芽を根絶やしにするため、中心人物の幸徳秋水を首謀者に仕立て上げる」というシナリオを描き出したのです。