『初恋』に登場するヒロインには、実在するモデルが存在します。村下孝蔵の故郷である熊本県水俣市で過ごした中学・高校時代、彼が密かに想いを寄せていた同級生の女性です。
生前の本人がメディアや親しい音楽仲間に明かしたエピソードによると、当時の村下は極めてシャイな文学・音楽少年であり、思いを寄せる女子生徒に対して直接気持ちを伝えることなど到底できない性格でした。放課後、彼女が部活動や下校で校庭を横切る姿を、校舎の窓際からじっと見送る日々が続いていたと伝えられています。
やがて卒業とともに訪れた物理的な別れ。結局、一言の告白もできないまま彼女は別の道を歩み、淡い恋心は青春の未完の思い出として胸の奥底にしまわれました。後年、プロの音楽家としてデビューした村下が、デビュー後の苦闘を経て自身の原点を見つめ直した際、脳裏に鮮やかに蘇ったのがまさにその「校舎の窓から見つめていた彼女の後ろ姿」でした。実話をそのまま日記のように書くのではなく、誰もが自己投影できる普遍的な叙情詩へと再構築した点に、ソングライターとしての卓越した手腕が光っています。