武家政権の制度化に生涯を捧げた泰時ですが、その家庭環境と最期は決して平穏なものばかりではありませんでした。後継者を巡る悲劇と、過酷な激務がその命を削っていきました。
早世した嫡男・時氏と、孫たちへの権力継承
泰時が最も信頼を寄せ、次期執権として帝王教育を施していた嫡男の北条時氏(ときうじ)は、六波羅探題として京都で実績を積んでいたものの、1230年にわずか28歳の若さで病没してしまいます。最愛の息子を失った泰時の悲痛は計り知れませんでしたが、泰時は崩れ落ちることなく、時氏の遺児である孫の北条経時(つねとき)と北条時頼(ときより)を手元に引き取り、次代のリーダーとして厳しく育て上げました。
後に第5代執権となった時頼は、祖父・泰時の合議制と徳政の精神を忠実に受け継ぎ、鎌倉幕府の全盛期を築くことになります。
1242年の死因:幕政への激務と疫病(赤痢)による最期
寛喜の大飢饉の収拾、御成敗式目の運用、さらに朝廷との繊細な政治折衝など、泰時の晩年は休むことのない激務の連続でした。1242年(仁治3年)5月、過労で体調を崩していた泰時は、当時鎌倉で流行していた赤痢(激しい下痢や発熱を伴う感染症)に倒れます。
病状が悪化する中、泰時は出家して「上求坊仏延(じょうぐぼうぶつえん)」と号し、同年6月15日、幕府の行く末を案じながら60年の生涯を閉じました。泰時の訃報が伝わると、鎌倉の御家人たちのみならず、街の庶民から京都の公家たちまでもがその死を深く悼み、喪に服したと伝えられています。