後世の創作や通説では、安藤信正は「井伊直弼に続く圧政者」「尊王派をいたずらに刺激した頑迷な官僚」として描かれることが少なくありません。しかし、近年の歴史研究や当時の外交記録を丹念に洗い直すと、まったく異なる実像が浮かび上がってきます。
第一に、安藤は井伊直弼の凶暴な強権政治(安政の大獄)の傷跡を必死に修復しようとした現実主義的な協調派リーダーでした。久世広周とともに政権を担った安藤は、水戸藩や朝廷との関係修復を最優先課題とし、朝廷の意向を可能な限り尊重しながら幕府の権力を再編しようと模索していました。和宮降嫁も、朝廷を武力で威圧するのではなく、幕府が「攘夷(外国の撃退)を実行する」という条件を呑む形で実現させた妥協の産物だったのです。
第二に、外交面における安藤信正は、極めて有能で粘り強い交渉官でした。イギリス公使オールコックら外国勢力との交渉において、開港・開市(新潟・兵庫・江戸・大坂)の延期を勝ち取るための使節団(文久遣欧使節)を派遣した中心人物こそが安藤信正です。彼は国内の攘夷熱が爆発寸前であることを的確に見抜き、無用な対外戦争を回避するために命がけで外交日程を引き延ばす実利的な舵取りを行っていました。
それにもかかわらず彼が暗殺の標的となった理由は、彼個人の失政というよりも、「妥協を許さない原理主義的な尊王攘夷運動」と「旧態依然とした幕府機構」の板挟みになった悲劇でした。急進派の志士にとっては、いかなる現実的妥協も「国賊の裏切り」と映ったのです。中間管理職的な立場で国政の軟着陸を目指した実力者が、構造的矛盾のすべての怨嗟を一身に背負わされたのが、安藤信正の失脚の本質でした。