出獄後の榎本武揚は、開拓使御用掛として北海道の資源調査に従事したのを皮切りに、その卓越した実務能力で国家の近代化を力強く牽引していきました。
- 樺太・千島交換条約の締結(1875年):特命全権公使としてロシア・サンクトペテルブルクに赴任。困難を極めた北方領土交渉において、万国公法を駆使して帝政ロシアと対等に渡り合い、平和的手段で千島列島全島を日本領として確定させる外交的勝利を収めました。
- 初代逓信大臣就任(1885年):伊藤博文内閣の発足に伴い、初代逓信大臣に就任。郵便・電信・灯台・海運など、国家のインフラネットワークの近代化を断行しました。
- 海軍卿、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任:教育改革、鉱山技術の導入、条約改正交渉など、科学技術と産業振興のあらゆる分野で主導権を発揮。政治闘争から距離を置き、終始「国利民福」の実務に徹したテクノクラートとして確固たる地位を築きました。
勝海舟からの厳しい批判と、その真意
旧幕臣の重鎮であった勝海舟は、著書『氷川清話』の中で「幕府を滅亡に導き、多くの部下を死なせながら敵政府の高官に収まった」として、榎本武揚を「二君に仕える節操なき男」と痛烈に批判しました。
しかし、勝の舌鋒の裏には、旧幕臣たちのプライドと世間体を重んじる美意識がありました。対して榎本は、批判の矢面に立たされようとも「自己の知見を日本の近代化のために捧げ尽くす」という実利的な愛国心を貫き通したのです。後年、両者は徳川家の名誉回復や育英事業において協調しており、根底では互いの力量を認め合っていました。