八田與一が台湾で現在も「神様のような存在」として尊崇されているのは、単に技術的なダムを造ったからだけではありません。工事現場における徹底した人道主義と、現地住民に対する深い敬意が人々の心を掴みました。
八田は建設現場に日本人と台湾人の区別なく同等の住宅や学校、病院を備えた集落を整備し、家族同伴で暮らせる環境を整えました。世界恐慌のあおりを受けて人員削減を余儀なくされた際にも、「優秀な技師は他でも再就職できるが、家族を養う現場作業員は行き場を失う」として、能力の高い日本人幹部から先に解雇するなど、徹底して現場の生活者を守り抜きました。
八田は1942年、太平洋戦争の最中にフィリピンの綿作灌漑調査へ向かう途中、乗船していた「大洋丸」がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、享年56歳で非業の死を遂げます。後を追うように、終戦直後の1945年9月、妻の外代樹(とよき)も夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口へ身を投じました。
台湾の民主化以降、中学校の歴史教科書『認識台湾』に日本人として初めて大きく功績が掲載され、毎年5月8日の命日には烏山頭ダム湖畔の銅像前で官民合同の慰霊祭が営まれています。国境や時代を超えて台湾の人々に慕われ続ける稀有な日本人です。