母方の祖父・岸信介は、近代日本政治史において最も毀誉褒変の激しい指導者の一人です。農商務省に入省後、卓越した政策立案能力で頭角を現し、1930年代後半には満州国(現・中国東北部)の実質的な最高指導者として経済統制を主導。「満州国産業開発五カ年計画」を成功させた手腕から、政財界で絶大な影響力を持つようになりました。
1941年に発足した東條英機内閣では商工大臣として入閣。しかし、戦局が悪化すると東條首相と講和を巡って激しく対立し、自ら大臣辞任を拒否して内閣総辞職の直接の引き金を引いたという冷徹な側面も持っていました。敗戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに約3年3カ月勾留されますが、1948年12月に不起訴処分となり釈放されます。
ネットや俗説では「GHQへの裏取引で釈放されたスパイ」といった極端な言説が散見されますが、外交史料や公文書研究によると、当時の東西冷戦の激化に伴うアメリカの対日政策転換(逆コース)と、東條内閣を倒閣に追い込んだ経緯が総合的に考慮された結果であることが立証されています。
政界復帰後の1957年に首相へ就任した岸は、不平等条約と批判されていた旧日米安保条約の改定に政治生命を賭けました。1960年、激しい反対運動(60年安保闘争)が国会を取り巻く中、新安保条約の批准を強行採決。日米が相互防衛義務を負う対等な同盟関係の基礎を築き上げ、批准書の交換を見届けた直後に退陣しました。妥協を許さぬ剛腕と、裏社会や政財界を動かす怪異な政治力から、畏敬と批判を込めて「昭和の妖怪」と呼ばれました。