福田赳夫元首相から派閥を禅譲され、名門派閥・清和政策研究会(安倍派)の歴史を本格的にスタートさせた晋太郎氏は、竹下登氏、宮澤喜一氏とともに「安竹宮(あんちくみや)」と呼ばれるニューリーダーの筆頭として総裁レースの先頭を走っていました。
しかし、なぜ総理の座に手が届かなかったのでしょうか。最大の分岐点となったのが、1987年の「中曽根裁定」です。中曽根康弘首相の後継選びにおいて、盟友関係にあった竹下登氏との話し合いがつかず、最終判断は中曽根氏に一任されました。結果として指名されたのは竹下氏であり、晋太郎氏は総裁の座をあと一歩のところで逃すことになります。
この時、永田町では「竹下内閣の次は安倍晋太郎」という密約・合意が存在したとされ、晋太郎氏は自民党幹事長として竹下政権を支えながら、次期政権への着実な布石を打っていました。清和会と経世会(竹下派)の緊密な連携による「安竹同盟」は強固であり、順当に行けば晋太郎内閣の誕生は確実と見られていたのです。