豊臣政権内部における武断派と文治派の主導権争いも、この悲劇を加速させた重要な要因である。秀吉の側近として実務を取り仕切っていた石田三成ら奉行衆は、合理的な官僚機構の構築を進めていた。その過程で、非公式な茶室外交によって政治的決定に影響を及ぼす利休の存在は、統治の妨げとなっていたのだ。
利休を支持していた弟の豊臣秀長が天正19年早々に病死したことも、決定的な転換点となった。政権内の調整役であった秀長という重しを失ったことで、利休と奉行衆の歪みは一気に噴出する。政治の表舞台と裏舞台の力学が崩れ去った瞬間だった。