なぜ米国政府は、日本をこれほどまでに追いつめる強硬な文書を突きつけたのでしょうか。その裏には、ルーズベルト大統領とハル国務長官を取り巻く複雑な国際環境がありました。
実は、ハル・ノートが手渡される直前の11月22日頃まで、米国務省は3か月間の軍事衝突を回避するための「暫定協定案(モデュス・ヴィヴェンディ)」を起草していました。この暫定案には、日本が南部仏印から撤退することを条件に、米国が一定量の民生用石油輸出を認めるという、妥協の道筋が含まれていたのです。
しかし、この動きを察知した中華民国の蒋介石が猛反発し、英首相チャーチルに泣きつきました。蒋介石は「日米が妥協すれば中国の抗戦意欲は崩壊する」と米政権に猛烈な圧力をかけ、チャーチルもルーズベルトに対して中国支援の維持を強く要請しました。米国内の世論も対日妥協を「宥和政策」と非難する声が高まっていたため、ルーズベルトは直前で暫定協定案を握りつぶし、強硬論を集約したハル・ノートへの差し替えを命じたのです。
ルーズベルト政権の真の関心は、ナチス・ドイツの猛威にさらされる欧州戦線にありました。米国民の孤立主義(不介入論)を乗り越えて参戦の口実を求めていたルーズベルトにとって、日本が強硬案を拒絶して暴発することは、結果として欧米連合国が一丸となって枢軸国と戦う体制を完成させる道でもあったのです。